ギリシア悲劇II「ソポクレス」(松平千秋訳 ちくま文庫)より、「ピロクテテス」感想文

 


-χορος(コロス)と悲劇

 

ギリシア語「χορος(コロス)」は、我々が普段用いる「Chorus(コーラス)」の原型である。ニーチェは「悲劇の誕生」の中で、ギリシア悲劇におけるコーラスの役割を以下のように述べる。

ギリシア人は、今日の我々が知っているような観客や観衆を知らなかった。ギリシアの劇場においては、観客席が舞台の中心に向かって半円形をなし、外側に向かって階段状に高くなっているため、誰でも周囲の文明全体を無視して、心ゆくまで舞台を見つめながら、自分自身をコーラス隊の一員であるかのように錯覚することができた。」(フリードリヒ・ニーチェ「悲劇の誕生」西尾幹二訳 中央クラシックス p66)

ニーチェは芸術をアポロン的なものとデュオニソス的なものとに分類分けし、後者に陶酔と熱狂という態度を与えた。ギリシア悲劇におけるコーラスは、上の引用の通りに、劇場の構造も相まって、物語の筋の中に観客を閉じ込める役割がある。(ナチス・政治集会のオーディオシステムを思いうかべる。)

ほとんどの場合、物語の筋に関係のある第三の役が、同時にコーラスも担っている。ソポクレス「ピロクテテス」においては、毒蛇に噛まれ、10年間もレムノス島にひとり取り残されたピロクテテスを騙し、トロイアに再び連れてゆこうと目論むネオプトレモスの「部下たち」が、コーラス隊である。例えば、ピロクテテスが傷口の激しい痛みによって痙攣し、意識を失う場面で、コーラス隊はこのようなセリフを喋る。「...できるだけ気をつけて、その弓を(奪うのです)...ネオプトレモスさま、時は今です、男は目を閉じて、闇に臥せっております。...」( 840-850行目)
 ピロクテテスはヘラス(ギリシア)軍でも抜きん出て腕の立つ武人であり、かたやネオプトレモスは英雄アキレウスの倅であるが、まだ若輩の身である。もし、ピロクテテスを騙そうとする計画が彼自身によって見破られてしまったとしたら、屈強な彼を抑えることはできないだろう。それどころか、激昂したピロクテテスに殺されるやもしれない。物語の筋に従って観客は、このような緊張の只中に置かれている。すると、突然の痙攣がピロクテテスの身体を襲い、そのまま地面にばたりと臥せってしまう。そして「今だ!弓を持って逃げるのです!」とばかりに、コーラス隊が上のセリフを叫ぶのだ。

ネオプトレモスは、非常に揺らぎやすい心情の持ち主として描かれている。そもそもピロクテテスを連れ戻すことを計画したのはオデュッセウスであり、それは「ピロクテテスがヘラクレスから賜った弓を使ってヘクトール(敵方の大将)を射なくては、ペルシアに勝てないだろう」という予言を受けてのこと。思案の末、ピロクテテスの親友アキレウスの倅、ネオプトレモスを連れ出し、過去の友情によって彼を騙して弓を奪う、という計略を立てたのだった。ところがネオプトレモスは情に流され、ピロクテテスとの間に本当の友情を築いてしまう。彼の痙攣の際、コーラスの「いまだ!」という提案にもかかわらずに機を逃し、ピロクテテスは目覚めてしまう。結局ネオプトレモスは、弓を掠奪する計画を彼に打ち明け始める。「今に私の恥が暴かれる!初めから私は苦しかった!..おお、ゼウスよ、どうしたらいいのだ!隠してはならないことを隠してしまった!」(910行目)すると、いつまでも帰ってこないネオプトレモスにしびれを切らし、オデュッセウスが登場する。彼を見るなりピロクテテスは怒り狂う(なぜなら、彼を一人レムノス島に置き去り、10年も放っていたのは、将軍アガメムノンとメネラオス、そして他ならぬ、オデュッセウスだった)、「うう、はかられた...さてはこやつが企んで、私の弓を盗ませたのだな!」(979行目)。


-プラトン的弁証術=διαλετικηと、悲劇的弁証術

 

ネオプトレモスは「ギリシア軍の勝利」か「一人の友人の名誉」の間で葛藤し、自分の上官であるオデュッセウスと議論をかわすために一緒に船へと戻る。その際、ピロクテテスは「行くのか、船の人たち(コーラス)、お前たちも私を一人にするのか」と、コーラス隊を呼び止める「お前たちはしばらくここにいて良い」と、ネオプトレモス。ここで、コーラス隊の真の意義が現れることになる。まずはその意義というもの、その役割を示しておくとするならば、以下のようになるだろう。すなわち「コーラス隊の発言は、我々の心情と符合するようになっている」と。「初めから成り行きを見ていたお前たち(船乗りたち・コーラス隊)、どう思う!」(1350行目)と、ピロクテテスが語りかけるのは、コーラス隊と同様に「初めから成り行きを見ていた」私たち、観客自身なのである。ピロクテテスとコーラス隊のみ舞台上に残され、1081行から1220行までのかなりの行数を使って、ピロクテテス一人と15人のコーラス隊で、対話が行われる。(実際に劇場で見れたならば、かなり圧巻だろう。)ピロクテテスの残酷な運命と、しかし従わなくてはいけない大義との間で揺れ動く、対話である。対話といえばプラトンだが、彼においてはゆるやかな上昇運動を見せた弁証術=διαλετικη が、運動する量を増やして、あるいは勾配も急になったような印象を受ける(ソクラテスは何も知らないが、コーラスは全てを知っている、という違いがある)。しかも、プラトンにおいては到達する「何か」が、ここにおいては見出せない。

「この山に住む動物たちよ!(私の弓と矢がなくなったので)今日から、隠れなくても良いのだ!...わしの肉体を喰らうが良い!...(船乗・コーラスたちに)どうしてわしをこんな目に合わせるのだ!もういい、わしを捨てていってくれ…(立ち去ろうとすると)待ってくれ!呪いの神ゼウスに誓って、行かないでくれ!...(『では、トロイアに一緒にくるか?』)いやだ!そればかりは、どうしてもいやだ!...私の心は血みどろだ。この手で自らの首を跳ねてやる。」

プラトン「メノン」においてソクラテスは、対話によって、奴隷である(学がないはずの)メノンの中に、素朴な幾何学を発見させる。メノンは「対話によって、最初の状態から別の状態へと移動した」、ともいっていいだろう。だが、ピロクテテスは、対話のはじめの地点から、全く動くことがない。片足を軸にしたバスケットボールのピボット・ターンのように、ある軸を中心に、揺れているだけに過ぎない。ここに、ニーチェディオニソス的」なるものを見出し得るのではなかろうか。つまり、永遠なる回帰を、我々観客と、ピロクテテスの間にて、行うことによって。「別の状態へ」というプラトン的な--それは、あるいは善を見出した状態--弁証術は、周知のように、イデアによって方向付けられていて、つまり唯一の一点に収斂して行くようにしか運動しないのに対し、我々と彼との間で行われているのは、エントロピーの増大、離散、はたまた、ヘラクレイトス由来の「闘争の弁証術」ではなかろうか。この闘争のうちに、我々は、悲劇の世界に「巻き込まれて」ゆく。あるいはこの点で、一つところに収斂するような、整合性の取れたエウリピデス的な悲劇--コーラスとそれの会話の相手との弁証術は、ソクラテス的だ(つまり、ある程度にはプラトン的だ)、として、ニーチェに非難されるのである。


-受難と帰郷、「オデュッセイアー」との親近性

ホメーロスオデュッセイアー」は、主人公オデュッセウスを、堅忍不抜-じっと耐え忍び、困難に対し心動じないさま-に描く(「ピロクテテス」のオデュッセウスは、時系列的に、「オデュッセイアー」における真の時系列のはじまる、直前の姿ということになる)。彼は知略に長け、この才を以ってあらゆる危機的状況を生き残り、そして無事に祖国イタケの土を踏む。そこで息子と協力し、妻ペネロペイアに言い寄る憎き求婚者どもを一網打尽にするのである。西洋文学(あるいは映画)において、「帰郷」という主題を扱った作品の多くは、この「オデュッセイア」の影響の下にあるといっても良いと思う。それは作品自体の「素晴らしさ」とは別のところにあり、つまり、これが「帰郷」テーマにおける初めて文学作品だから(もちろん無数にあったであろうが、残ったのはホメーロスの作品)、であるに他ならない。さて、我々の「ピロクテテス」もやはり、ピロクテテスの帰郷という小さなテーマが隠れている。

この悲劇の物語は、ピロクテテスの持つ大英雄ヘラクレスの弓をめぐって展開されている。この弓がなければトロイアを落とす事ができないという予言に従い、オデュッセウスとネオプトレモスが島にやってきた。そこで彼を騙そうとした計略自体の「徳」を巡り、二人が対立してしまうのは、上に見てきた通りである。そしてこの物語の結末は、この弓をピロクテテスに譲った英雄ヘラクレスの霊(霊体)に導かかれてたどり着くことになる。彼は突如、ピロクテテスが10年も暮らした洞窟の影から現れ、彼に語りかけていうには「...(ヘラクレス自身が)どのようにして不死なるアレテーαλετη(徳)の主となったか。よく思うが良い、そなたにしても同じ事だ。苦悩に満ちた険しい運命は、苦しみ抜いた生涯の果てを、栄えあるものとするために、神が与えた賜物だ。…行けこの若者とともに、トロイアの城へ。まず痛ましい病をいやす、次に、陣中並ぶもののない誉れとして、この戦と災いのもとパリスめを、予の弓と矢で仕留め、トロイアの城を落とすのだ。」(1413行目から)との事である。いささか突然すぎるとも思われる英雄の出現はしかし、ピロクテテスの帰郷を強く暗示している。この弓を彼に譲り渡した経緯にまず、ピロクテテスの父が関係しているのだが、彼はヘラクレスの生前の願いを聞き入れた唯一の人であり、その所以で息子てであるピロクテテスが彼から弓を託されたからだ。ヘラクレスの願いというのは、生きたまま、自ら設えたオイタ山山頂の火葬場にて焼身する事だった。親族たちはこれを理解できずに火を放てない。そこで、ピロクテテスの父が彼の意図を理解し、祭壇に火を灯すのだ。これが先の「不死なるアレテーαλετηの主」となるための受難だったとするならば、そして、これによってヘラクレスが英雄から神へと昇っていったのだとすれば、ピロクテテスの父の行為は特別なものであり、ヘラクレスにとっては恩人と呼べるだろう。更に言えば「神としてのヘラクレスの産みの父」、こう表現しても過言ではないだろう。つまり、ヘラクレスの登場は、ピロクテテスに自らの父の存在を強烈に意味させ、すなわち、帰郷への意識を高めるのである。
 ただし、この帰郷には、「オデュッセアー」譲りの、「受難」がある。彼が10年の歳月をレムノスで過ごした受難は、その序章でしかなく、ヘラクレスは「トロイアでパリス(ペルシア方の王子。ヘクトールの弟。彼がメネラオスの妻であるヘレネを掠奪したことから、トロイア戦争は始まるのである)を射て」と、さらなる受難を授ける。これはさながら、「オデュッセアー」における、求婚者討伐を連想させるだろう。また、レムノスでの10年という歳月も二つの作品に親近性を生んでいる。いやむしろ、「オデュッセアー」におけるオデュッセウスの受難(魔女カリュプソの屋敷での10年は、確かに、レムノスでの10年と類似した形式である)を先取りする形で、ピロクテテスは彼よりも先に、憂き目にあっていた、という事実を、何らかの意図でソポクレスは強調したのかもしれない。

「万物は流転する」という有名な命題は先の「闘争の弁証術」の哲学者、ヘラクレイトスによるものだ。そして「ピロクテテス」の作者であるソポクレスも、作品でこの言葉を検討しているように思える。すなわち、ピロクテテスに与えた受難を、オデュッセウス自らが引き受けることによって。